日本神代史01

●改謬の度合い:
イ群:古事記 > 日本書紀 > 旧事本紀 > 旧事本紀大成 >>>> 富士古文献

と考える。原文にあたり、整合性の検討による結果である

 

●その他の文献については、原文については観られておらず、2次批評による内容の概要に基づくと:

ロ群:ホツマツタエ > ウエツフミ

ハ群:竹内文書 > 九鬼文書 > 富士古文献

が大枠で同系列。竹内&九鬼がより誇大的、富士古文献がより現実的な記載の印象だが、竹内&九鬼の原未確認のため比較できず

 

●竹内、九鬼、富士以外、上代史については、どれも神話として物語化されており、論理的な事実把握・理解は、不可能だと考える

此の点、富士古文献は他とは圧倒的に異質であり、淡々と事実を記載しており、突飛な記載も見当たらない。内容の多くは論理的に合点の行く。

他の酷く改謬された史書(特に記紀)の記載内容の意味も、この富士古文献の神代の記載を読み、スメラミコトの筋が、大陸の震旦と、朝鮮半島との混血であることを前提にして、初めてなるほど、と解釈できるようになった。つまり、史書(特に記紀)は、この混血を隠匿するための改謬・物語化である、と解釈する以上に整合的な解釈は他に見つからない

 

●あの、古事記日本書紀の、「コロオリ、コロオリ、」ヌボコを混ぜたり、目を洗うときに神が生まれたり、島が生まれたり、という荒唐無稽、意味不明な記述に、そして伊弉諾伊弉冉の子づくりの仔細など、馬鹿にされているとしか思えない。それを「なんぞこれ」とならず呑み込んでしまうのは「理解」ではないと思う。これは思想における同調圧力と同じだろう。これをどの様にして「理解」しろというのだ。1984における2+2=5を信じるのと同じことだと思うのだが